悪役挑戦、躊躇わない
ピープル | 「愛」キムミンジュン 気楽に見える第一印象に比べて、キムミンジュンは対話を交わす程に気難しい本音を現わす人だ。‘まだ行く道が遠い’と言うキムミンジュンに、クァクギョンテク監督の 「愛」はまた別の演技教室だ。
映画が公開された後、キムミンジュンの変身に対する話が多い。映画を2度程見たが、率直に言ってよく分からない。映画というものは、封切り以後がより重要ではないか。俳優が一番気になる部分は、観客たちがどのように評価するかだ。それが一番重要ではないか思う。 実は、私が出演する分量はあまり多くないのに、カットされたのは編集で3カット程だけだ。すべての場面が生き残ってくれて、それが気持ちが良い。(笑)
「愛」では演技だけでなく外的にも変化の幅が大きいようだ。現場でも本当に見分けることが出来なかった。 メーキャップをたくさんしたとはいうものの、実は目の下を真黒く塗ったマスカラと髪を立てだけだった。(笑) どのようにすれば最大限変化を与えられるか悩んだ。クァクギョンテク監督は眉毛の刃物跡や頭の傷跡など、通常見られた悪役たちのイメージより多少強ければ良いと言った。それよりもう少し変化を与えようと考えた。
監督は最大限いやらしく見えるのが目標だったと言っていたが、その言葉がぴったりと合っていた。 それじゃ成功だ。(笑) シナリオを見た時、監督がサンホ役(チュジンモの高校の友達。 後で焼死する。)を提案してくれないかと考えていた。その人物がシナリオ上で一番光る役だから。ところが、実際に会ってみるとチグォン役でなければならないと言っていた。率直に「チグォン?シナリオをまた見なくちゃ。」と思ったのを憶えている。
事実、こういう悪役はあまりしたことがないのではないか。‘いやらしい’というコンセプトのディテールを、どんなに表現するか悩んだようだ。初日は少し緊張して行った。ところが、 2〜30分経つと、言うとおりにすれば良いようだった。クァクギョンテク監督は直接的にディレクションを与える方で、訛りが上手く出来ない時も、監督を真似れば良かった。そんな面が楽だった。撮影場で表現出来なくて難しい事はなかった。あまりに全体のシーンが多くなくて、リーディングをしても20分までもかからなかった。(笑)
キャスティング提議の前に監督に先に連絡したと言っていたが。クァクギョンテク監督が新しい作品を準備中という話は遅れて聞いた。シナリオが回っている状況でもなかったし、男性配役の主要キャスティングも終わったということだった。今回の映画に必ず一緒にすると思ったというより、欲心で監督様に一度会ってみたいと話したら、監督様が快く時間を下さった。会って「ひょとして、私がすることはありませんか?」と聞いた。(笑)
普段からァクギョンテク監督の映画が好きだったらしいが。観客として好きだった。俳優としても、故郷である釜山の情緒が強い映画をしてみたかった。当時、演技をするのに、酷い筋肉痛が感じられる程に硬直していたし、あまり楽しさが感じられなかった。 撮影場で遊ばなければならないのに、それが上手く出来なかった。 退屈だというたくさん考える時、自分が面白く出来るのは何かと考えていたところ、クァクギョンテク監督の映画をすれば、一番面白く出来ると思った。強い映画をしたかった。実は、私が釜山出身という特徴を見せたことがない。クァクギョンテク監督の映画を一緒にすれば、私自ら新しい姿も見せ終わっても楽しいようだった。
釜山訛りと現場が、確かにより楽な点があったということか? そうだ。 各地域の訛りは何百年、幾千年の間取り交わされて磨かれて来た言語ではないか。実は以前は、釜山でロケをすれば内心気まずかった記憶がある。釜山で釜山の情緒の映画を撮れば、楽しくて面白いのに、大部分ソウルあるいは特定空間を仮定して撮影するから。そんな面で「愛」は面白かった。俳優たちも釜山の訛りを使わなければならないし、現場でいつもぶらついて。勿論、釜山に閉じ込められて他に行くところなかったが。(笑)
強姦、暴行などの強い場面がある。既存の‘ジェントル’なイメージが損傷されないか憂慮はなかったか? 躊躇わない勇気がなければならないと思った。以前までは、あるシステム中にいたから、心に決めたとおりたくさん行けなかった。今、30代初盤でまだする配役も多い。率直に言って、私がいわゆる‘二枚目(主演)’が出来る良い条件を持っていると思う。 しかし、強烈な悪役に会える機会はあまりない。良い監督の下で、ちゃんと悪役をしてみることが、ぴりっとする経験だった。チグォン役に大満足だ。 終わってからも気まずくなく、ご両親を迎えてお見せすることにも躊躇いが無いほどに後悔がない。
ドラマや映画の、粹で正しい感じから解放された快感があった。私の役がそうだ。カメラの前で紳士的ではなければならないし、誰もが共感するマナーを取り揃えなければならないキャラクターの為、身体にそれが滲んでいる。もし、女性が車に乗れば、ためらわないで車のドアを開けてあげる、そんな感じだと言えばいいか。すべてを制御しなければならないキャラクターに本能的に付いて行けば良い人物を演じると良かった。
演技も演技だが、確かに訛りの台詞は自然だった。 演じながら難しかった部分が、正確なアクセントと台詞などの技術的な部分だった。チグォンは台詞がいくつもなくて、もっと正確なニュアンスを伝達しなければならなかった。監督が願う文のポイントを突くのが一番大変だった。事実、監督様はもうちょっと粘っこくて快活な声と目つきを望んだが、それよりはもう少しやんわりと表現されたようだ。
ミジュが倒れたベッドを眺めるチグォンの後姿が薄気味悪かった。私と10年働いたファッションエディターが、映画を見て身代わりなのかと聞いて来た。体つきが違うと。チグォンを引き受けてもっと良かったことが、体つきを作る必要がなかったからだ。 これは監督様とも相談した部分だが、毎日薬をしているような人が、体が良いわけがないと思った。そのまま自然でのっぺりした身体が合うようだった。格好良く見えたかったら、密かに運動を少しくらいはしただろうが、本当に何一つしなかった。 画面を見たら、照明のお陰で、身体が触るとベタベタしたような感じがしてもっと良かった。
他のインタビューを見ると、自らの映画や演技を見れば、苦しめられると話していたが。 演技が出来ないから、苦しめられることだ。(笑) 目標は高いが、そこ到逹することが出来ないから息苦しいことではないだろうか。
俳優としての潜在力に比べて、まだ炸裂していないという評価があったりもする。期待値か初盤からとても高かったと思う。初めに期待値がもっと低ければ良くなかっただろうかと、惜しかったりもする。初ドラマ「茶母」のような場合も、包装された部分が多かった。 史劇だとはいうが、正統派史劇ではないから独特に見える部分もあったし、新人なので隠したまま行く部分がとても多かった。私は学校で演技を学んだことがなく、劇団出身でもない。とても運良く、途方もない金を受け取りながら勉強していることと考える。 さらに多く整え、良い姿をお見せするのが恩返しではないかと思う。
最近、映画の方の活動は小さな役だが、何か倦まず弛まずジャンプしようとする動きが感じられる。私がそうしようと思っている。いくらを儲けなければならないという目標がない。妻子がいるわけでもなく、今すぐどんなCFをしたら良くて、どんなドラマをしなければならないという目標がない。良い演技者になることが目標だから、皆そこに至る段階の数々だと思う。自ら経験しない状態で大きい比重を引き受けるのは礼儀ではないと思う。 今は打って、潜ることをしなければならない時であるようだ。経験が重要ではないか。小さな比重なら、映画作業でもっと多いことなどを楽に見られる。 ともすれば、「あの人はどうして無茶なところへと行く?」と言われることもあるかもしれない。 派手なものなどは捨てて行くから。 しかし、これはたじろぐとか大変な状況ではなく、自分としてはとても熱心に走っているのだ。
多様な経験だから、もし挑戦したいジャンルや配役があるか? とても多い。終りもない。私がもし「史劇をしてみたいです。」と言うと、インタビューを読む人々が「史劇がしたいと言う。それでは私たちとは合わないんじゃにいのか。」というのではないかと心配で控え目だ。したい映画は毎日毎日変わる。
映画と演技に対して欲心も好奇心も多いようだ。私が好きなものを振り返ってみると、すべて映画で会っていた。ファッションをしてみると写真も好きで、そうしてみると映像にも関心が生まれた。音楽が好きだが、好きなミュージシャンがある日、映画音楽をしていたり、 ファッションもそうだ。映画「ゴッドファーザー」にジョルジオ・アルマーニがワードローブ(イタリアンスーツ)を協賛した。それがどれ程素敵だったか。男たちが「ゴッドファーザー」に対して抱いているロマンは俳優の力もあるが、彼らを包むワードローブの力もあると思う。このように私の関心事が皆、映画と会わせた。映画をしたいと思っていた時、私が何をしなければならないか?そんなことをたくさん考えた。深度あって躍動的なことが好きで、ビューファインダーで何を見ることが好きだから、カメラをしなければならないか、カメラを熱心に勉強してステディーカムをしてみようかと考えるまで。(笑) 「ボーン・アルティメイタム」でジェイソン・ボーンが窓に跳び込む時、カメラを担いで一緒に跳び込む人がいる。そんな場面を想像すると、あれを私が出来れば良いのにと思う。好奇心に終りがない。
そんな面で、天上の俳優のようだ。俳優は本当に魅力ある職業だ。世の中に、本当にしたい事をしながら生きる人々が極めて珍しいのではないか。現場で大変だと言うのは、不平のようだ。何百人が貢献して作る作品で、見えるのは私たちしかいない。俳優の一瞬の懶怠と間違いで、その人々の苦労が無駄になってしまう可能性もある。そんな面で責任感も大きい職業だ。
演技に対して、自らにかなり厳格だという印象だ。学生時代に柔道をしたが、柔道で 8段以上になると白い帯を受ける。8段以上なら柔道の生きている至尊になり、 一生を柔道だけ掘り下げて業績を成した人々が始める時のように白い帯に戻る。何が後で意味があるか。 褪せた映画?40〜50年後に私が死ぬと遺作が残る。 後代の人々はあんな映画もあったし、あんな俳優もいたな、と。その中で「あの人、良かったんだよね。」と思う、そういうものを残すのが夢だ。皆、そうじゃないだろうか。
チョヒョンジュ記者 写真/アンハジン
[
FILM2.0]2007.10.09
posted by rika1999 at 21:08|
■TOPICS
|

|